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亀島延昌のちょっと一服

 
 

堀川賀正の銀座探訪 vol.8

博品館
日比谷公園
 今回は銀座を少し離れて昨年ちょうど110周年を迎えた日比谷公園について書いていこうと思います。
日比谷公園は明治36年に我が国初の近代西洋風公園として開園され、以来全国の都市公園のモデルとなってきました。
 この日比谷公園の建設は時代の動乱期であった明治中期に、東京を都市として整備しようとする「東京市区改正」事業の一部として構想されました。
 現在の日比谷公園一帯の地域は、太田道灌の時代から江戸時代初期にかけて、海辺の漁村でした。現在の地名である「日比谷」と表記されるようになったのは江戸時代に入ってからで、「ひびや」という地名は漁民が海苔づくりや魚捕りのために使った「ひび」という道具に由来するといわれています。
日比谷の地は江戸時代には大名屋敷が連なる街として栄え、明治時代には練兵所として利用されていました。
 軟弱地盤で建築不適とみなされていたこともあり、明治21年11月に開催された東京市区改正委員会で日比谷練兵場跡地は公園とすることが提案され、東京の中央公園として建設するように計画されました。
 当時、日本では公園を建設する経験が乏しく、我が国初となる近代洋風公園の建設にあたってなかなか議論がまとまりませんでした。
 そんな中、林学博士であった本多静六が中心となって設計案が起草され提出されましたが、国内の様々な部門から多数の非難がなされました。
 公園にきれいな花や木を植えると、「夜間に花や木を盗まれてしまう」との非難に対して、博士は「公園の花弁が盗まれぬ位に国民の公徳がすすまねば日本は亡国だ。公園は一面、その公徳心を養う教育機関のひとつになるのだ。家の中では親の隠しておく菓子までとって食ってしまういたずらの子が、一度菓子屋の小僧になると、数日にして菓子に飽きて一向に食わないのと同じで、私は公園にたくさん花弁を植えて、国民が花に飽きて盗む気が起こらないくらいにするのだ」と答えています。
 また、「池を造ると身投げの名所になる」との指摘に対しては、石垣の上から飛び込めないように池の周囲を低い地面にし、浅瀬を設けるようにしました。
 このようにして博士たちの案はなんとか通過し、明治35年4月になっていよいよ着工されるようになりました。着工後1年余で一応の工事が竣工し、日比谷公園は明治22年の東京市区改正設計の告示以来14年ぶりとなる明治36年6月1日に仮開園しました。
 開園してからは市民が一斉に乱入し、ほとんど歩けないほどの盛況ぶりだったようです。
 日比谷公園は近代的公園の第一号であり、東京のみならず日本の近代文化遺産だといえます。この日比谷公園の開設は人々に都市の真ん中にも人工的に造られた水や緑に囲まれた憩いの場が必要であるということを認識させ、日本の公園の発展に大きな役割を果たしてきました。
 銀座からちょっと足を延ばすと四季折々の顔で、私たちに憩いの場を提供してくれる公園。今日もたくさんの人々に「おもてなし」の花を届けています。