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亀島延昌のちょっと一服

 
 

堀川賀正の銀座探訪 vol.10

銀座の柳
銀座の柳
 銀座の街を歩いていると、至る所で目にする木があります。そう、柳です。地方から出て来た人や若い方々にはあまり知られていませんが、銀座の街に今やひっそりとただずんでいるこの柳たちには、実は長い歴史があるのです。
 銀座の柳の歴史について語るには、銀座という街の歴史から紐解いていく必要があります。明治5年(1872)、銀座一帯は大火事に襲われました。これに伴って政府は翌年、街の不燃化政策を実施し、銀座通りをレンガで舗装しました。さらに街の景観をモダンにするため、松や桜を植えて日本初の街路樹が誕生しました。しかし明治10 年(1877)、この松や桜たちが地下水位の高い銀座では次々に枯れてしまう問題が発生しました。この代替え案として植えられたのが、水に強い柳の木だったのです。
 このようにして初代銀座の柳が誕生します。それから10 年もすると、銀座の街を彩る街路樹はほとんど柳になりました。大正12年、関東大震災の惨劇によって銀座一帯が焼失。柳の木々も震災の影響をもろに受けてしまいます。それから震災の復興と共に銀座の柳たちは銀杏の木に植え替えられる動きがありましたが、昭和4 年(1929)に大ヒットした名曲「東京行進曲」の歌詞に取り上げられたことで銀座の柳は再び注目を集め、二代目「銀座の柳」が誕生します。
 そんな中、時代は激動の時代へと突入、銀座の柳たちも第二次世界大戦の戦火は免れることができず、そのほとんどが焼失してしまいます。終戦から3年、銀座の柳を復活させようという地元の有志たちによって、三代目「銀座の柳」が誕生します。ところが時が過ぎるにしたがって、戦火を免れた柳が枯死し始めます。さらにオリンピック開催に向けて目まぐるしく変わっていく街の環境の変化に、柳たちはどんどん枯れてしまいました。
 時代についていくことができず、衰弱していく銀座の柳たちにさらに追い打ちをかけるように、銀座通りの改修を理由にして、柳の撤去が決定してしまいました。そして銀座の柳は日本各地に移植されてしまいました。それから20年近くの時を経て、銀座の柳が苗圃に3本だけ残っているのを知った有志たちが枝を持ち帰って二世柳を育て、銀座の街に3回目となる柳の復活を実現させました。
 現在銀座のシンボルとして銀座通りを彩る柳。動乱の時代を国と共に駆け巡った歴史を知ると、銀座通りを歩くのがさらに感慨深く思えてきます。